機嫌の取りかた

自分の機嫌を取ることで世界を維持する。8歳と5歳の娘と夫と、東京の端で暮らす。

眠れない夜に

次女が今までとは違う病気で1ヶ月半ほどの入院になった。ついでにやっぱり先天性異常かもしれないと軽く言われて、おかしいな? 後厄抜けたのにな? と、ショックも通り越してただただ目の前のことに向かうくらいしかできない日々である。でも目の前のことに集中できるのは、家族や実家や会社や保育園の多大なる支えがあってのことで、それに対して感謝を忘れずにいたい。

次女が生まれた時「すごいの来たなぁ」と思った(ちなみに長女は「くさい」である)。次女はなんだか後光を放っていた。第二子の余裕か、格段に大人しくよく笑う(新生児微笑で)せいか、その引力に吸い寄せられてしまう。気づいたら愛でて愛でて時間が過ぎていることがある。

生後半年ですごい病気にかかり、以後その後遺症が主体になり、それも薬で落ち着いたかなと思った矢先にまた違う後遺症。毎日の注射と半隔離、週1のCTに続く心電図心エコー血液MRIその他想像がつかない名前の検査の連続で、治療の副作用もあって不機嫌な次女。一歳を過ぎたばかりの子になぜこんな、仕打ち。それでも効果が出るかは五分五分。多いと見るか、少ないと見るか。

治療は早く始めれば始めるほどいいらしく、もともとの持病からあらゆる変化に敏感になっていたため早期発見できたのは、不幸中の幸いかもしれない。症状が出始める前、すごくぐったりしている時期があって、これは絶対におかしい何かあると、渋る医者を説得して検査したが何も出ず。しかししばらくしたら症状が出ると同時にスッキリしたかのように元気が出てきた。だからあの時のぐったりは前兆で間違ってなかった、よく気づいた、と仲の悪い主治医に言われた時、すごくホッとしたのを覚えている。なんとか親の役目は果たせていたみたいだ。

気付くくらいしか、それくらいしか、私にできることはない。治療法を考えるのは医者、そしてそれを受けてがんばるのは次女。私ができるのは普段通り身の回りの世話と観察だけで、最初は無力感ばかりだったけど、今は最低限で精一杯のこれだけを、これだけは、親の私にしかできないと向き合うだけだ。

夏ごろ入退院を繰り返していたころは無力感でひどくげっそりしていたけど、今回はそうでもない。目の前を精一杯に、たんたんと。ブログ書いたりクラウドワークスでデザインコンペに参加したり、自分の機嫌をとりながらね。あとはお花があるといいかな。

それでもやっぱり疲れていたらしく、夫と付添を交代して、実家に預かってもらっている長女と我が家に帰って来た深夜、目が冴えてしまった。どうにも寝られず漫画を読む。「健康で文化的な最低限の生活」。生活保護受給者とケースワーカーの関係を描いていて、今回はアルコール依存症の受給者だ。

人は人を頼らなくては生きていけない。依存症になるとそれを酒に置き換えて、すべてを酒に頼って生きるようになる。酒は何も言わない。何も言い返してこない。人と付き合うために利用していた酒が、いつの間にか酒を飲むために人を利用するようになり、人間関係は壊れ、孤独。酒ではなく、本来の「人」に頼って生きる方法を見つけない限り、いつでも簡単に元の生活に戻ってしまうーー

無力感の頃は、親としての万能感に依存していたのかもしれない。それゆえ、それが削がれた入院生活中は多くの人に当たり散らしていた。今はもうそんな万能感はまったく無意味で、私は人にお願いすることしかできないと、腹をくくっている。そうすると、ちょっと、落ち着く。

でもね、しんどいね、子どもの病気は。悪くないんだもん、誰も。それなのに、子どもは辛いんだもの。次女の入院のことを話してPTAの役目をちょっと免除してもらったら、PTA仲間が「うちの子も実は持病があってね」と、そっと話してくれた。一見ギャルのような彼女はうっすら涙を浮かべて入院のことをぽつりと語り、「健康ってすごいね、知らなかった」とうなづきあった。それだけで、それだけだったけど、私の心はすごく軽くなった。

半隔離で個室だから他の患者家族と全く面識がなかったけど、今度会ったら挨拶からでもはじめてみよう。何しろ1ヶ月半だ。その後も通院と再発の恐れが待っている。長い、戦いになる。

(ちなみに長女ですが、実家の犬を追いかけ回していじめているそうです)