副菜の呪いにヤられる前に〜みんなマリコになればいい
多くの日本人は、副菜の呪いにかかっている。
副菜とは、一食のうちメインの魚や肉の横に添えられる、「小さなおかず」のことです。日本には「一汁三菜」なんて言葉があり、メインの他に副菜2品が添えられた食事が「バランスの良い食事」であり、また「標準の食事」であると主張しています。
あのね、手間。
疲れて帰って、そこから「標準」のご飯作りスタートなんて、無理無理。せいぜい肉なり魚なりを焼いて、ご飯と味噌汁を揃えて食卓に並べるので精一杯。
それだけで偉くない?よくがんばってんじゃん…と自分を褒めれども、うちなる自分おばけが言うわけです。「あれ、(手作りの)副菜は?」と。
私はさまざまな「うちなる自分おばけ」と戦ってきました。母親とはこうあるべきとか、社会人としてだめなんじゃねとか、そういった思い込みが激しい方なので、つまづくたびに自分で自分を攻撃するという非生産的な行動を繰り返しています。
が、副菜に関しては「うちなる自分おばけ」と戦うことすらないのです。「あれ、(手作りの)副菜は?」と言われたら「そうだよね…なんかいるよね…でも疲れたから卵豆腐で赦していただけないでしょうか…」と秒で屈してしまいます。この呪いは圧倒的です。争うことすら忘れてしまうくらいのパワーがあります。
私は、自分がどんなに疲れていても、それにあまり意味がないことはわかっていても、「副菜のない、バランスを欠いた食卓」を作ることにものっすごい抵抗感があります。
先日こんな記事を見かけました。
共働きが主流になろうとしている昨今、かといって夫側の労働時間もそうそう短くならない昨今、男性の家事参加を促す派よりも、どんどん家事削ってこ!派です。ドラム式洗濯機・食洗機・スティック式掃除機は問題なく使っている。むしろなくてはならない。なのに副菜ばっかりは削るのに相当な勇気を要します。
なので、週末には2時間程度をかけて副菜の作り置きをします。料理を作っているというより、「作業をしている」までに工程を細分化、15品くらいを同時並行的・工業的に量産するのが、無駄なことをしている自分を見失わないコツです。
そんなとき思い出すのは、義母・マリコの存在。
マリコは餃子のときは餃子しか出さないそうです。餃子とご飯と味噌汁と思いきや、餃子、のみ、です。コロッケのときは、コロッケ、しか出しません。
夫からその話を聞いたとき、3回くらい確認してしまいました。それくらい、私の中で副菜のない食卓がショッキングだったようです。が、しかし、その潔さは、昨今の情勢にあっているのでは。むしろ進歩的なのでは。
やはり私の目指すところはマリコにあるのかもしれない…そう思いながら、今日も作り置きの副菜を食卓に並べるのでした。マリコでいいじゃない、なんてくちずさみながら。